平安時代(794年~1185年)
平清盛(1118年~1181年)が、宋(当時の中国)との貿易を盛んにし、近道の瀬戸内海航路をつくるため、音戸で開削(1165年)をしたという伝説が残っている。それが、音戸の瀬戸。厳島神社へのルートも便利になった。
平清盛は、貴族政治を握っていた藤原氏を打ち破り、武士の政治を日本で最初に打ち立てた。当時、瀬戸内海で暴れていた海賊をおさえ、安全な海上交通を打ち立てた。海の安全を願うために厳島神社を敬い、多くの寄進をした。
室町時代(1336年~1573年)
第3代将軍の足利義満(1358年~1408年)は、京都の金閣寺を建てたことで有名だ。義満が厳島神社に参拝する際に、音戸の瀬戸を100艘の大船団で通り、潮の流れに苦労したという記録が残っている。
戦国時代(15世紀末から16世紀末)
島を巡って野間氏と小早川氏が争っていたが、野間氏が滅び、中国地方一帯を治めた戦国大名の毛利氏の下、小早川氏の領地になった。
江戸時代(1603年~1868年)
江戸時代後半に音戸の瀬戸に渡し船が始まった。イワシ漁も盛んになり、音戸は港町として発展していった。胡屋(えびすや)という造酒屋が、五勝楼(ごしょうろう)という離れを音戸に建て、素晴らしい景色が広く知れ渡った。浮世絵にも2代目安藤広重によって、諸国64景の一つに、音戸が描かれている。
明治期以降(1868年~)
本土側に海軍の基地ができたことで、呉の市街地は大いに発展した。全国でも10番目の人口を誇り、広島市内よりも多かった。その近隣エリアということで、音戸界隈も賑わったのだ。
音戸が江戸時代栄えた理由は、瀬戸内海航路の発展という理由があります。もともとは、各地の年貢であるお米を大阪に送るための小型和船が、瀬戸内海を渡り、ついでに荷を積んだのが始まりです。その規模も大きくなり、船も大型化しました。船は北前船や菱垣廻船があり、大阪の日用品を積み、途中、瀬戸内海の塩や油を積み、各地の港で販売または購入し、日本海側をぐるりと周り、新潟県やさらには北海道まで商売しながら航海しました。まさに音戸はその一つの海上交通の要衝なのです。